Thursday, November 11, 2010

ノーバート・ウィーナー著  「Cybernetics」

Cybernetics

 私がこの書物を書きました当時は、Cyberneticsはまだ将来を見越した研究プログラムに過ぎませんでした。今日は、それはひとつの研究科目として成立しております。通信工学における統計的な見方は、この方面でよく認められた研究方法になり、claude shannonらの手によって、幾多の実用上の成果も得られました。オートメーション工場は、今や水平線のかなたのものではなく、その提起する重大な技術的ならびに社会的問題には、今日あるいは明日、直面せざるを得なくなりました。時系列の理論は長足の発展を遂げ、神経生理学、気象学、社会学、等々の分野に注目すべき影響を与えております。

 このような事情の下では、Cyberneticsの定義を、最初に私が与えたものより、もう少しはっきり決めておく必要があると思われます。次の定義も、本質的に船の舵を取る人との類似によるものですが、今日私はそれをこう述べたいと思います:われわれの状況に関する二つの変量があるものとして、その一方はわれわれに制御できないもの、他の一方はわれわれに調節できるものであるとしましょう。そのとき制御できない変量の過去から現在に至るまでの値に基づいて、調節できる変量の値を適当に定め、われわれに最もつごうのよい状況をもたらせたいという望みがもたれます。それを達成する方法が「Cybernetics」にほかならないのです。

 この考え方が真の生命力を備えているならば、当時一般に行われていた考え方にとっては、ショッキングさえあったことであった。すなわち一定の周波数の振動は、すべて2個の振動の重ねあわせにひき直される。「電流」十分に増幅すれば、あるところでかなりの大きさの無作為雑音(random noise)がえられる。解析(analysis)だけでなく、その合成(synthesis)にも実際に利用できる。その手順は、かなり簡単に記述される。

 解析しようとする非線形を「暗箱」(black box)で示すこととする。その他に、展開の各項に対応する、構造が分かっている装置があるとし、それらを「明箱」(white box)で表すことにする。積=乗算器、平均=平均装置。これらの解析、合成、および「明箱」が「暗箱」に似せて、自動的に自分を調整する操作などは、これらはすべて、暗箱、明箱に適当な入力を選んで加え、両者を比較して一致させるという、「学習させる」手段を何らかの形で用いている。

 これらの可能性について論じよう。生物学的には、多分生命現象の中心であると見られるものと、少なくとも類似なものと見出すことができる。遺伝が行われ、細胞が増殖することができるためには、細胞の遺伝形質が担う部分――いわゆる遺伝子(gene)――が、自分に似た別の遺伝形質を担う構造を作り出すことができなければならない。したがって工学的に構成されたものが、ある手段によって自分と同様の機能を持つ他の構造物を作り出すことができ、その手段がわれわれに知られるということは大変興味のあることである。特に、一定の周波数で振動している系が、いかにして他の振動系を自分と同じ周波数のものにかえてゆくことができるかをそこで論じよう。生物学的物質の同一性を決定する型(pattern)の要素は、ある周波数、分子スペクトルとかいうべきものの周波数であるかもしれない。その研究の結果、何か学習する工夫がなされなければ、はっきり固定した機能の機械のプログラムを作ることは自分も大変困難な仕事なので学習機械の概念が、われわれのこしらえた機械に適用されるのであれば、動物と呼ばれる生命のある機械にもこの概念は意味を持つに違いない。それは、生物学的サイバネティックスにも、新しい光を投げかけるであろう。大部分は、非常に特殊な装置に関するものである。生理学的な面では、このプロセスは、生物組織の特別なしくみにもっと即したものでなければならない。とにかく、系が自分自身を構成していく過程である。それは、脳波でごくせまい範囲の特定の周波数だけが形成されていく過程である。脳波の中にはっきりした周波数が存在するという事実、およびそれがどのようにして発生し、何をすることができ、医学的にどのように利用されるかを説明するために、生命現象の根源を解明するのにも役立つであろう。

 私はこの計画に大きな望みを託しているのである。科学の世界におけるこれらの空白地帯の探求は、ひとつの部門の専門家でありながら同時に隣の部門にも透徹した理解のある科学者たちのチームによってはじめて成功すると主張した。すなわち、全員が共同研究に参加して、互いに他の人の考え方の習慣を知り、同僚が新しい提案をするときには、それが完全に整った形で表現される以前に、その意義を汲み取ることができるような科学者のチームである。何年もの間、われわれはこれら科学の未開拓領域のひとつを共同研究する、それぞれ一人前の科学者からなる研究グループを夢みてきた。この科学者たちは一人のえらい行政官の部下として組織されるのではなくて、その領域を全体として理解し、その理解によってお互いに力づけあいたいと精神的な欲求によって結集するのである。

 第一に複雑な計算の遂行、第二に未来の予測という、人間特有の頭脳活動のお株を奪ってしまうための電気機械系の研究に、ふたたび従事することとなった。人間のある種の機能の動作を論じないわけにいかない。最近よく使われる言葉で言えば、自己受容性(proprio-ceptive)の感覚によるものである。制御工学と通信工学との問題が、たがいに切り離しえないこと、またこれらの問題が電気工学の技術のみに関するものではなく、むしろ通報(message)という、はるかに基本的概念に関するものであるということであった。ここにいう通報とは時間的に分布した測定可能な事象の離散的あるいは連続的な系列のことであって、電気的、機械的な方法、あるいは神経系などによって伝送されるもの一切を含んでいる。これはちょうど統計学者が時系列(time series)と呼んでいるものにほかならない。通報の将来の予測は、その過去に、ある種の演算子を施して行いうるのであるが、この演算子は数学的な計算または機械的か電気的な装置によって実現される。これに関連してわれわれが見出したことは、はじめに考えていた理想的な予測装置には、およそ相容れない2種の誤差がつきまとうことであった。われわれが最初に設計した予測装置は、望むままの近似度をもって、非常に滑らかな曲線を予測できるものであったが、このように精密なものにするには、常に感度増大という犠牲をはらわなければならなかった。滑らかな波形をうるという点で優れている装置は、その滑らかさから少しずれても発信しやすく、またそのような発信は減衰しにくいのである。こうして滑らかな波形を良く予測するためには、粗い曲線を最大限良好に予測する場合よりも精巧で感度のよい装置が必要である。

 与えられた場合にどんな装置を選んで使用するかは、予測すべき現象の統計的な性質によって決めなければならない。この相互に関係しあう誤差は、ハイゼンベルグ(heisenberg)の量子力学に述べられている位置と運動量の測定が互いに相反するという問題、いわゆる不確定性原理と呼ばれるものと相通ずるものであると思われた。従って、時系列の統計的性質がわかりさえすれば、変分法の計算手法を使って、時系列の将来を予測する問題の最良の解の表示を求めることができ、さらにこの解を装置として物理的に実現することも可能となったのである。このような演算子、あるいはそれを実現する装置の最良なものを設計するには、通報と雑音それぞれ単独および両者同時の統計的性質を知る必要がある。従来は、経験と、行き当たりばったりともいうべき方法で行われていた濾波器の設計を、われわれは完全に科学的根拠に立って行うことができるようにしたのである。情報量の概念は、統計力学における古典的なエントロピーの概念ときわめて自然に結びついている。ある系の情報量はその秩序の度合いの測度とも考えられるが、それと同様に、ある系のエントロピーとは不秩序の度合いの測度とも考えられる。従って一方の正負の符号を変えさえすれば他方になるのである。新陳代謝や生殖作用のような生物体の基本現象を正しく理解するのにも重要である。

 生命の第三の基本現象、すなわち刺戟に対する感受性は通信理論の領域に属し、またわれわれが今論じた考え方の体系の中に含まれていることになる。このように4年ほど前にはすでに、ローゼンブリュート博士と私の周りの科学者グループは、通信と制御と統計力学を中心とする一連の問題が、それが機械であろうと、生態組織内のことであろうと、本質的に統一されうるものであることに気づいていた。それでわれわれは制御と通信理論の全領域を機械のことでも動物のことでも、ひっくるめて『サイバネティックス(Cybernetics)』という語で呼ぶことにしたのである。

 1943年秋、ピッツ氏マサチューセッツ工科大学に来て、私と一緒に研究し、数学的基礎を固めて、サイバネティックスの研究をすることとなった。もっともその頃この新しい科学は、確かに生まれてはいたけれども、まだ名前はついていなかったのである。当時、ピッツ氏はすでに論理数学と神経生理学には精通していたが、あまり工学の方面とは接触する機会を持っていなかった。特に彼はシャノンの研究を知っていなかったし、電子工学によって可能となるいろいろなことも知っていなかった。だから私が最近の真空管の見本を示して、ニューロン系の等価回路を実現するにはこれが理想的なものだと説明したとき、彼は非常に興味を感じたようであった。このとき以来、われわれに明らかになったことは、次々にスイッチの操作を行う超高速計算機が、神経系に生ずる問題をほとんど理想的にあらわす模型となりうるに違いないということであった。動物における記憶の本質とその多様性を説明する問題は、計算機械の中に記憶装置を人工的につくる問題に対応するものとなる。

 生理学者の言葉でいわゆる間代痙攣(clonus)を生ずるような状態になるまで、筋肉に負荷をかけた。われわれはこのような状態の収縮を観察したのであるが、特に猫の生理学的状態や筋肉にかけた負荷、振動の周波数、振動の基底レベル、振動振幅などに注目した。このようにして、われわれはそれと同じ型の乱調を起こす機械系や電気系を分析するのと同じように、これらを分析しようと試みた。たとえば制御機構に関するマッコルの本にのべられている方法を使ってみた。遠心性神経によって伝送される1秒あたりのインパルスの数を基礎として線形かどうかを考えるならば、この回路は近似的にも線形演算子の回路とはいえないが、もしインパルスの数のかわりにその対数をとって考えるならば、ほとんど線形であるといってよいようである。この事実は、遠心性神経の刺戟の包絡線の形は正弦波に近いとはいえないが、この曲線の対数は正弦波に近いことに相当する。 最も瞠目すべき点はこの対数的な性質を考慮に入れ、神経筋回路(neuromus-cular arc)のいろいろの部分を通過してひとつのインパルスが伝道するときに得られるデーターを用い、乱調をおこすフィードバック系の発信周波数を決めるのに制御工学技術者がすでに発展させた方法を使って測定してみると、間代痙攣の実際の周期にひじょうによくあった数値が得られることであった。われわれは発信周波数の理論値として約13.9Hzを得たが、実測値は7~30Hzの周波数の範囲であり、多くの場合は1217の範囲内にある。このような条件下では、この程度の一致もひじょうによくあっているといってよい。

 マーガレット・ミード博士は、現代のような混乱時代では社会的・経済的問題が非常に緊迫しているから、サイバネティックスのこの面の討論に精力をもっと集中するようにと私に要請した。私は時勢が緊迫しているという彼らの感じかたには同感であり、本書の後の章で述べるようなこの種類の問題が、彼らや他の有能な研究者たちによって取り上げられることを望むものではあるが、私がこの方面の問題を真先にとり上げるべきであるとする彼らの考え方には賛成できない。社会に対する妥当な統計を得るには、本質的に一定の条件が継続する必要がある。このように人間の科学は数学の新しい手法の効果をためすには非常に都合の悪い分野である。社会学的・人類学的・経済学的量を評価するにあたって、専門家の判断力という要素が非常に大きくきいてくるために、専門家になれるだけの豊富な経験をもたない新人にはなんともできない分野でもある。全く未知の場合に積極的に統計的推進を行なうために使うことには、私には確信がもてない。

 私がサイバネティックス的な考え方によって、実際に役に立つようなことをやってみたいと思う分野が他にも二つあるが、その希望も今後の進歩を待たなければならない。そのうちのひとつは、なくなった手足、あるいは麻痺した手足の補綴術である。ゲシュタルトを論じたところで知ったように、マッカロは通信工学の考えを、喪失した感覚を他のもので代用させる問題に用い、盲人が耳で印刷文字が読めるような装置を作成した。マッカロの案出した装置は、明らかに目だけでなく、脳の視領域まである程度代行しうるものである。義肢の場合でも同様のことが明らかに可能である。手足の一部の喪失は、単に支持物として役立っていたもの、あるいは手足の(切断後に残された)基部の先に機械的延長としてつながっていたものを失ったというだけでなく、それについていた筋肉の収縮力や、それから生ずる皮膚感覚や筋肉運動知覚も同時に失ったことになる。義肢製造者は現状では、始めの二つの喪失物を義肢で代用させようとしているが、第三のものにはとても及んでいない。電気的方法あるいはバイブレーターなどで残存した皮膚にそれを伝えるというようなことができないはずはないであろう。現在の義肢は、手足の切断から生じた能力の喪失をかなり取り除いてはくれるが、運動失調はそのまま残っている。適当な受容器を使用すれば、この運動失調も相当程度までなおってしまい、患者はすべて健全な人間が自動車の運転の際に使うような反射神経を使えるようになり、その結果もっとしっかりした足どりで歩けるようになるであろう。私はこれらの考察をその方面の適当な人に報告するためにまとめかけたが、現在までのところ大して進捗していない。他の人がすでに同じようなことを考え付いておられるかもしれないし、またやってみて技術的に実行不可能ということになっているかもしれない。現在の超高速計算機は、原理上、自動制御装置の理想的な中枢神経系として使用できる。また、中枢神経系に報告‘すなわちフィードバックする’ことによって、人工の筋肉運動知覚を実現するとすれば、われわれはほとんどどのような精巧な動作でもなしうる機械を人工的に製作できる状態にある。

 われわれは善悪を問わず未曾有の重要性をもった社会革命に当面しているということであった。自動工場、すなわち工員のいない一貫組立工場は、今までのところ実現されてはいないが、その実現を阻んでいるものは、ただわれわれが第二次世界大戦中に、たとえばレーダーの技術の進歩にそそいだ程度の努力をしていないからにすぎないのである。その本質とは一口に言えば‘競争’ということである。この問題に対する解答は、もちろん、売買よりも人間の価値を尊重する社会をつくることである。このような社会に到達するためには、われわれは十分な計画と、ひじょうにうまくいったとしても思想の面で生ずる多くの闘争とを必要とする。もしそうしなかったら?それは誰にもわからないことである。私も、また彼らのうちの誰も、個人的見解以上に進むことはできなかった。このように新しい科学「サイバネティックス」に貢献したわれわれは、控えめにいっても道徳的にはあまり愉快でない立場にある。これらの進歩は今日の時代のものである、この領域におけるわれわれ個人の努力を、生理学や心理学のように戦争や搾取からもっとも遠い分野に限定することである。この新しい領域の研究によって人類と社会の理解を深めることできるという善い成果が挙がり、その方が、危険よりずっと大きいという希望をもつ人々もいる。

ノーバート・ウィーナー著  「Cybernetics」 序章記述より

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