Monday, September 19, 2011

フランクル『夜と霧』

ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』池田香代子訳

原書 EIN PSYCHOLOGE ERLEBT DAS KONZENTRATIONSLAGER

上からの選抜と下からの選抜

  (被収容者でありながら他の被収容者を虐待し服従させる役目の)カポーは(人格が)劣悪な者から選ばれた。この任務に耐えるのは・・もっとも残酷な人間だけだった。親衛隊員にあてはまるような、ある種の優秀者を上から選ぶ選抜とならんで、劣悪者を下から選ぶ選抜というものもあったのだ。(p.5)

愚弄という伴奏

  殴られることのなにが苦痛だと言って、殴られながら嘲られることだった。・・(仲間と枕木をかついでいる)友人がよろめいたのが目に入った。今にも転んで、相棒たちを道連れにしそうだ・・思わずとんでいって友人を支え、運ぶのを手伝った。だが・・わたしは背中を棍棒でどやされ、粗野などなり声で、ひっこんでろ、と命じられた。しかし数分前にこの監視兵は、わたしたち豚どもは仲間意識がないと嘲ったのだ。(p.p.39-40)

はたから見ればどうということもないエピソードが示すのは、かなり感情が鈍磨した者でもときには憤怒の発作に見舞われる、それも、暴力やその肉体的苦痛ではなく、それにともなう愚弄が引き金になる、ということだ。現場監督がなにも知らないくせにわたしの人生を決めつけるのをただ聞いているしかなかったとき、わたしはかっと頭に血がのぼった。(p.44)

精神の自由

人間の精神が収容所という特異な社会環境に反応するとき・・このような影響に屈するしかないのか・・。経験からすると・・人間には「ほかのありようがあった」ことを示している。・・感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えていた人や、最後に残された精神の自由、つまり周囲はどうあれ「わたし」を見失わなかった英雄的な人の例はぽつぽつと見受けられた。そんな人は、たとえほんのひと握りだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。

典型的な「(堕落した)被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。(p.p.110-112)

運命 賜物
     (強制収容所で亡くなった)この若い女性は、自分が数日のうちに死ぬことを悟っていた。なのに、じつに晴れやかだった。 「運命に感謝しています。だって、わたしをこんなひどい目にあわせてくれたんですもの」彼女はこのとおりにわたしに言った。 「以前、なに不自由なく暮らしていたとき、わたしはすっかり甘やかされて、精神がどうこうなんて、まじめに考えたことがありませんでした」 その彼女が、最期の数日、内面性をどんどん深めていったのだ。 「あの木が、ひとりぼっちのわたしの、たったひとりのお友だちなんです」 彼女はそう言って、病棟の窓を指した。外ではマロニエの木が、いままさに花の盛りを迎えていた。 ・・「あの木とよくおしゃべりをするんです」 わたしは当惑した。彼女の言葉をどう解釈したらいいのか、わからなかった。譫妄状態で、ときどき幻覚におちいるのだろうか。それでわたしは、木もなにかいうんですか、とたずねた。そうだという。ではなんと?それにたいして、彼女はこう答えたのだ。 「木はこういうんです。わたしはここにいるよ、わたしは、ここに、いるよ、わたしは命、永遠の命だって・・・・」(p.p.116-117)

収容所監視者の心理

なぜ血の通った人間がほかの人間に、この報告にあるようなことができたのか。・・監視兵のなかには、厳密に臨床的な意味での強度のサディストがいた、ということがひとつ。そして、選り抜きの監視隊を編成するときにはサディストが求められた、ということがふたつである。・・言うまでもなくそこでは残酷な輩や保身にこりかたまった連中が選ばれた。収容所でのこの下位からの選抜は、サディスト(ランキング)の上位からの選抜にほかならなかった(p.p.141-142)

内面への逃避

ほんのひとにぎりではあるにせよ、内面的に深まる人びともいた。もともと精神的(スピリチュアル)な生活をいとなんでいた感受性の強い人びとが、その感じやすさとはうらはらに、収容所生活という困難な外的状況に苦しみながらも、精神にそれほどダメージを受けないことがままあったのだ。そうした人びとには、おぞましい世界から遠ざかり、精神の自由の国、豊かな内面へと立ちもどる道が開けていた。繊細な被収容者のほうが、粗野な人びとよりも収容所生活によく耐えたという逆説は、ここからしか説明できない。(p.58)

収容所のユーモア

部外者にとっては、収容所暮らしで自然や芸術に接することがあったと言うだけでもすでに驚きだろうが、ユーモアすらあったと言えば、もっと驚くだろう。・・ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ。ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在にそなわっているなにかなのだ。(p.71)

暫定的存在を分析する

元被収容者についての報告や体験記はどれも、被収容者の心にもっとも重くのしかかっていたのは、どれほど長く強制収容所に入っていなければならないのかまるでわからないことだった、としている。・・・たとえば一日のようなわりと小さな時間単位が、まさに無限に続くかと思われる。しかも一日は、権力をかさにきたいやがらせにびっしりと埋めつくされているのだ。ところがもう少し大きな時間単位、たとえば週となると・・薄気味悪いほどすみやかに過ぎ去るように感じられた。わたしが、収容所の一日は一週間より長い、というと、収容所仲間は一様にうなずいてくれたものだ。(p.p.118-119)

教育者スピノザ

わたしはトリック(空想)を弄した。突然・・暖房のきいた豪華な大ホールの演台に立って・・語るのだ。講演のテーマは、なんと、強制収容所の心理学。今わたしをこれほど苦しめうちひしいでいるすべては客観化され・・この状況に、現在とその苦しみにどこか超然としていられ、それらをまるでもう過去のもののようにみなすことができ・・わたしの苦しみともども、わたし自身がおこなう興味深い心理学の対象とすることができたのだ。
スピノザは『エチカ』のなかでこう言ってなかっただろうか。
「苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象したとたん、苦悩であることをやめる」
(p.p.124-125)

(強制収容所の)医長によると、この収容所は一九四四年のクリスマスと一九四五年の新年のあいだの週に、かつてないほど大量の死者を出したのだ。これは医長の見解によると、過酷さを増した労働条件からも、悪化した食糧事情からも、季候の変化からも、あるいは新たにひろまった伝染性の疾患からも説明がつかない。むしろこの大量死の原因は、多くの被収容者が、クリスマスには家に帰れるという、ありきたりの素朴な希望にすがっていたことに求められる、というのだ。クリスマスの季節が近づいても、収容所の新聞はいっこうに元気の出るような記事を載せないので、被収容者たちは一般的な落胆と失望にうちひしがれたのであり、それが(劣悪な環境や病気への)抵抗力におよぼす危険な作用が、この時期の大量死となってあらわれたのだ(p.128)
生きる意味を問う

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが私たちからなにを期待しているかが問題なのだ・・。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。・・この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。・・どんな状況も二度と繰り返されない。・・人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。・・だれもその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。・・このように考えることは、たったひとつ残された頼みの綱だった。それは、生き延びる見込みなど皆無のときにわたしたちを絶望から踏みとどまらせる、唯一の考えだったのだ。・・わたしたちにとって生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、・・苦しむことと死ぬことの意味にも裏づけされた、総体的な生きることの意味だった。(p.p.129-132)

苦しむことはなにかをなしとげること

気持ちが萎え、ときには涙することもあった。だが、涙を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ。しかし、このことをわかっている人はごく少なく、号泣したことがあるといに炉にふれて告白するとき、人は決まってばつが悪そうなのだ。たとえば、あるときわたしがひとりの仲間に、なぜあなたの飢餓浮腫は消えたのでしょうね、とたずねると、仲間はおどけて打ち明けた。「そのことで涙が涸れるほど泣いたからですよ…」(p.p.132-133)

なにかが待つ

自殺を図った者を救うことはきびしく禁止され・・仲間が首を吊ったところを発見しても、綱を「切る」ことは規則で禁止されていたのだ。したがって、あらかじめそうさせない努力が重要だったことは言うまでもない。ここまでに述べてきたことが実際に役立ったふたつの例を思い出す。・・「生きていることにもうなんにも期待が持てない」と・・(自殺願望者に)典型的ないい方をしたのだ。しかし・・ひとりには、外国で父親の帰りを待つ、目に入れても痛くないほど愛している子どもがいた。もうひとりを待っていたのは、人ではなく仕事だった。彼は研究者で・・この仕事にとって余人に代えがたい存在だった。・・このひとりひとりの人間にそなわっているかげがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生きつづけることにたいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気付かせる・・自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように(存在するか)」にも耐えられるのだ。(p.p.133-134)

時機にかなった言葉

収容所で集団を対象に精神的ケアをほどこす可能性はきわめて限られていた。これには言葉よりも効果のあるものがあった。模範だ。たとえば居住棟の班長の中に公正な人物がいたが、その毅然とした、見ているだけでも勇気づけられる存在は、ことあるごとに彼の統率下の被収容者に深く広く影響をおよぼしていた。存在、それも模範的存在の直接の影響は、言葉よりも大きいものだ。だが、なんらかの外的根拠を挙げて内的な共感をよびさますときには、言葉も有効だった。(p.135)

医師、魂を教導する

人間が生きることには、つねに、どんな状況でも意味がある、この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、苦と死をもふくむのだ、とわたしは語った。そしてこの(停電で)真っ暗な居住棟で・・わたしたちの戦いが楽観を許さないことは戦いの意味や尊さをいささかも貶めるものではないことをしっかりと意識して、勇気をもちつづけてほしい、と言った。わたしたちひとりひとりは、この困難なとき、そして多くにとっては最期のときが近づいている今このとき、だれかの促すようなまなざしに見下ろされている・・だれかとは、友かもしれないし、妻かもしれない。生者かもしれないし、死者かもしれない。あるいは神かもしれない。そして、わたしたちを見下ろしている者は、失望させないでほしいと、惨めに苦しまないでほしいと、そうではなく誇りをもって苦しみ、死ぬことに目覚めてほしいと願っているのだ、と。(p.p.138-139)