Sunday, May 4, 2014

ワインスタイン『CIA洗脳実験室』


Weinstein, H., & Tomabechi, H. (2000). CIA sennō jikkenshitsu: Chichi wa jintai jikken no gisei ni natta.

ハービー・M・ワインスタイン著CIA洗脳実験室 ~ 父は人体実験の犠牲になった”

(臨床医であるはずの)キャメロンは自分の研究を実験と見ていた。自分の理論を証明するために、外部の機関から資金を受け取っていたことも、治療ではなく実験であった証拠だ。また、病院とは別に実験室を建て、方法論を発展させていたのである。これらは彼の処置が日常的な治療ではないことを裏付けている。(p.239)


MKウルトラ>のようなプロジェクトが過去のものだと、どうして言いきれるだろう。現在の情勢を考えると、CIAが自分たちは(自分たちの犯した罪に対し)付随的な責任しかないと言い張るのは驚くにあたらない。<MKウルトラ>の研究者の名前を明かさなくてもよいとした一九八五年の最高裁判所の決定や、国家安全の名目でCIAの情報を保護したその後の決定に支えられて・・一九五〇年代の体制に逆戻りしている。(p.259)

2 comments:

n said...

ワインスタイン『CIA洗脳実験室』

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内容紹介

アメリカ政府が隠し続けたCIA機密プロジェクト「MKウルトラ」。試薬の処方、ショック療法、感覚遮断、強制睡眠……。同プロジェクトは1940年代に始まり、自白薬の開発から洗脳へと発展していった。本書は洗脳の実験台にされた父親を目撃し続け、精神科医になった著者が告白する衝撃のノンフィクション。苫米地英人氏と宮崎哲弥氏による対談も収録!待望の復刊!

新装刊にむけてのまえがき(一部抜粋)
苫米地 英人

2010年三月末日、警察庁長官狙撃事件の公訴時効を迎えて、警視庁公安部は「オウム真理教のほかに犯人はいない」と異例の発表をした。といっても、私が洗脳を解いた元警察官・K氏を04年に不起訴にした時点で事件の迷宮入りは決まったようなものだった。自白も状況証拠もそろっていたのに、彼らは不起訴に持ちこんだ。K氏から情報が漏れるのを恐れていたのだろう。この事件のオウムの役割はヒットマンに過ぎず、背後に別の組織が存在する。その組織に話が及ばないようにするためどうしても、オウムの仕業で幕を閉じる必要があった。

本書で、著者の父親が入院した病院がCIAの洗脳実験に利用されたように、オウム真理教がなにかに利用されていた大きな実験場であったことは、今でもあまり知られていない。オウム真理教にかんする事件がうやむやに終わるのは当然といえる。隠したいことがたくさんあるのだ。
麻原こと松本智津夫死刑囚にしても、本人が何かを話してしまう前に、裁判をせずにそのまま消されてしまうのではないか。知人の精神科医が麻原の医療接見の許可を取り会いに行ったが、本来四時間認められる医療接見のはずが、通常接見と同じで一時間、実際は30分ぐらいで追い出されてしまった。もちろん何も訊けなかった。麻原は脳梅毒でかなりやられてはいるけれど、精神的に崩壊はしていないから話しはできるはずだ。でも語らない。村井(秀夫・元幹部。1995年に刺殺された)のように口を封じられてしまうからだろう。上祐(史浩・元幹部)もいまだにいっさい口を割らない。

地下鉄サリン事件では、発生直後に各国のエージェントがデータを取りに来ていた。日本以外はみんな事件を知っていた。本書で、アメリカ人であるCIAが、同じ人間ではないかのように、カナダ人に洗脳実験を施したように、欧米人にとっては日本人はただの実験材料だったのだろう。オウム自体も実験の対象であり、食事に炭素菌やLSDを混ぜられるなど、信者たちは知らぬうちに実験材料となっていた。これがオウム真理教の実態である。

n said...

関連書籍:
岡田尊司『あなたの中の異常心理』
 
なぜ人はイジメをするのか。イジメをめぐる多くの議論が忘れていることは、イジメには強烈な快感が伴なうということである。いじめている側は、面白くてたまらないのである。・・いじめる側にとっては、いじめられる相手は、快感を与えてくれる麻薬のような存在なのだ。・・相手をいたぶることを麻薬の代わりに用いているのである。(p.p.57-58)

そこには短絡的な快楽回路ができあがり、無限にループしつづけるのである。その短絡的な円環において、他者は排除されている。相互的で共感的な他者とのかかわりはない。自己目的化した快楽の追求は・・ますます歯止めを失いやすいのである。(p.67)

だが問題は、なぜそうした悪の快感にはけ口を求めなければならないのかということだ。破壊的な行動に耽るとき、必ずその人自身も危害を加えられる体験をしたり、阻害された思いを味わっているものである。愛され、大切にされている存在が、そうした行動に耽ることはないのである。(p.63)